「水の備蓄は1人2Lを3日分」——この数字は防災の定番として広く知られている。
しかし1994年夏、愛媛県松山市で124日間にわたった給水制限を経験した者として、この数字には決定的に欠けている視点があると断言できる。
人間が生きるために必要な水は「飲料水」だけではない。
トイレが流せない、お風呂の時間が決まっている——その経験が教えてくれたのは、「生活用水」を含めた総水量で備蓄を設計する必要があるということだ。
1. 平成6年渇水——記録的少雨が列島を干上がらせた夏
1994年(平成6年)は日本各地で春から少雨の傾向が続き、梅雨時期の降雨も平年の半分以下だった。
7月から8月にかけては記録的な高温が続き、西日本から関東地方までの多くの観測点で観測開始以来の最高気温を記録した。
この渇水の影響は全国40都道府県に及び、給水制限や断水を行った地域が続出した。
農作物被害は1,409億円に達し、気象庁は「平成6年夏の高温・少雨」として記録に残している。
愛媛・松山の状況
瀬戸内海沿岸に位置する愛媛県は、年間降水量が全国でも少ない地域だ。
1994年の渇水はその地域特性と相まって、特に深刻な事態をもたらした。
| 項目 | データ |
|---|---|
| 松山市の給水制限期間 | 1994年7月26日〜11月25日(124日間) |
| 最も厳しい断水期間 | 8月22日〜10月21日(19時間断水) |
| 1日の給水時間 | わずか5時間(16時〜21時) |
| 松山の降水量(5月〜9月中旬) | 平年の約1/4 |
| 8月の降水量 | わずか2mm(平年比で極端な少雨) |
| 石手川ダムの貯水率 | 8月26日にゼロ(底水の使用を余儀なくされた) |
| 最大節水率 | 上水42%・農業用水91%・かんがい用水73% |
| 節水期間 | 1994年6月25日〜翌1995年5月1日(約10ヶ月) |
石手川ダムの貯水率がゼロになった8月26日以降、ダムの底に残った沈泥混じりの「底水」まで使用するという事態になった。
さらに9月25日には底水も使い果たし、工業用水を生活用水として転用するという緊急措置がとられた。
「蛇口をひねれば水が出る」という日常が、これほど簡単に崩れることを多くの人がこのとき初めて知った。
2. 「水が出る時間」が決まっていた生活——当時の記憶
当時、私は愛媛県内に住んでいた。
19時間断水というのは、1日のうち水が使えるのが16時から21時の5時間だけということだ。
最初に困ったのはトイレだった。
水が出ない時間帯にトイレを流すことができない。
バケツに水を汲み置きしておいて流す、という対応をとっていたが、汲み置きの量を計算しながら生活するという感覚は、普段の生活とは根本的に異なるものだった。
お風呂は家族全員で時間を決めて入るようになった。
水の出る16時から21時の間に、できる限りの生活用水を確保しなければならない。
料理・洗い物・洗濯・入浴・翌日のトイレ用の汲み置き——限られた5時間でこれらをこなす段取りが、日常生活の中心になった。
「飲む水」は比較的確保できても、「生活を維持する水」がこんなにも多いことを、このとき初めて意識した。
飲料水として1日2Lあれば十分だとしても、トイレ・風呂・炊事・洗濯に使う水はその何倍もの量が必要だったからだ。
3. 渇水断水と災害断水——異なる原因・共通する教訓
1994年の渇水と、地震・台風による災害断水は、原因は異なるが「水が使えなくなる」という結果は同じだ。
ただし復旧までの時間軸と発生の予測可能性に大きな違いがある。
| 項目 | 渇水断水 | 地震・台風による断水 |
|---|---|---|
| 原因 | 降水量不足・ダム貯水量の枯渇 | 管路破損・ポンプ停電・浄水場損傷 |
| 予測可能性 | ある程度予測可能(天気予報・ダム情報) | 地震はほぼ予測不可能 |
| 断水の形態 | 時間給水・段階的な制限 | 突然の完全断水が多い |
| 復旧までの期間 | 数週間〜数ヶ月(雨が降るまで終わらない) | 数日〜数ヶ月(管路修復次第) |
| 給水車の有無 | あり(事前計画的に配置) | あり(ただし発災直後は混乱) |
| 水質への影響 | 比較的少ない(量の問題) | 管路逆流・汚染の可能性あり |
渇水断水から得られる最大の教訓は「水不足は短期間では終わらない」という現実だ。
松山の給水制限は124日間に及んだ。
大規模地震後の断水も同様で、阪神・淡路大震災では完全復旧に約90日かかっている。
「72時間分の備蓄があれば大丈夫」という発想は、断水の長期化リスクを完全に無視している。
4. 「飲料水」だけでは足りない——生活用水を含めた総水量の設計
防災の文脈で「水を備蓄する」といえば飲料水が中心に語られる。
しかし実際の生活において水が必要な場面は飲料水にとどまらない。
| 用途 | 1回あたりの使用量 | 1日の使用量目安 | 備蓄の優先度 |
|---|---|---|---|
| 飲料水 | コップ1杯200ml | 約1.5〜2L/人 | ◎ 最高優先 |
| 調理用水(米を炊く・湯を沸かす) | 2〜3合で約500ml | 約1〜2L/人 | ◎ 最高優先 |
| 歯磨き・洗顔 | 歯磨き約500ml・洗顔約1L | 約1〜2L/人 | ○ 高優先 |
| トイレ(大) | 大便1回あたり約6〜8L(節水型で約4〜6L) | 約12〜24L/人(3〜4回想定) | ○ 高優先 |
| 手洗い | 1回あたり約1〜3L | 約5〜10L/人 | ○ 高優先(感染症予防) |
| 体を拭く(清拭) | 約2〜3L | 約2〜3L/人 | △ 中優先 |
| 食器洗い | 約5〜10L/回 | 約5〜10L/世帯 | △ 中優先(ラップ皿で削減可) |
この表から明らかなのは、トイレの水が生活用水の中で圧倒的に多いという事実だ。
大便1回あたり約6〜8Lの水が必要であり、1人1日3〜4回の使用を想定すると18〜32Lに達する。
これは飲料水(1.5〜2L)の10〜20倍に相当する。
【1人1日の総水使用量の概算】
飲料・調理:約3〜4L
衛生(歯磨き・洗顔・手洗い):約7〜12L
トイレ:約18〜32L
合計:約28〜48L/人/日
「1人2L/日」という備蓄量では、飲料水ですら最低ラインに過ぎない
5. 現実的な備蓄設計——重量・スペース・優先順位のバランス
28〜48L/人/日という数字を見て「そんなに備蓄できない」と感じる人が多いはずだ。
現実的な備蓄設計は「全量を備蓄する」のではなく、用途ごとに優先順位を設け、代替手段と組み合わせるという発想で設計する。
優先順位①:飲料・調理水は必ず備蓄する
1人1日3〜4L×家族人数×7日分を目標とする。
4人家族の7日分であれば84〜112L・重量で84〜112kg。
すべてをペットボトルで備蓄すると保管スペースと重量の問題が生じるため、一部を長期保存水(5〜15年保存可能なもの)で確保し、ローリングストックと組み合わせる。
優先順位②:トイレ用水の代替手段を確保する
トイレへの対応は「水を備蓄する」よりも「水を使わない手段を用意する」方が現実的だ。
簡易トイレ(凝固剤・防臭袋タイプ)は1回あたりの水使用量をゼロにできる。
4人家族・7日分・1日4回使用を想定すると112回分が必要となる。
簡易トイレは軽量・コンパクトで保管しやすく、断水時のトイレ問題を根本から解決できる。
優先順位③:衛生用水は浄水器と雨水で補完する
手洗い・清拭・食器洗いなど飲料以外の衛生用水は、浄水器で処理した雨水や川の水で代替できる。
電力不要の中空糸膜フィルター式ポータブル浄水器があれば、近隣の河川・池・雨水を0.1μm以下にろ過して衛生用水として使用できる。
| 用途 | 推奨対応 | 備蓄量の目安 |
|---|---|---|
| 飲料・調理 | ペットボトル備蓄+長期保存水 | 3〜4L/人/日×7日分 |
| トイレ | 簡易トイレ(凝固剤タイプ)を優先 | 4回/人/日×家族人数×7日分 |
| 手洗い・清拭 | ウェットティッシュ・アルコール消毒液で代替 | ウェットティッシュ100枚×日数分 |
| 食器洗い | ラップを皿に敷いて使い捨て対応 | ラップ1本×家族分 |
| その他衛生用水 | ポータブル浄水器で雨水・河川水をろ過 | 浄水器1台(家族共用) |
6. ローリングストックの設計——備蓄水を「管理する」ではなく「使い回す」
備蓄水の最大の課題は賞味期限管理だ。
市販の2Lペットボトル飲料水の賞味期限は約2年、長期保存水でも5〜15年と限りがある。
「備えたまま期限切れにする」という失敗を防ぐのがローリングストック法だ。
ローリングストックの原則:
日常的に備蓄水を使い、使った分を補充する → 常に一定量を維持する
「備蓄専用」ではなく「日常の延長」として管理する
具体的には「日常的に飲む水を少し多めに買い置きし、古いものから使って新しいものを後ろに回す」という運用だ。
これにより賞味期限切れのリスクを最小化しながら、常に一定量の備蓄を維持できる。
長期保存水との組み合わせ
ローリングストックの運用が難しい場合や、追加の安全マージンが必要な場合には保存期間5〜15年の長期保存水を別途備蓄する。
長期保存水は通常のペットボトル飲料水より価格が高いが、管理の手間が大幅に削減できる。
「日常用ローリングストック(2年賞味期限)+非常用長期保存水(10〜15年)」の二層構造が最も合理的な備蓄設計だ。
7. 124日間が教えてくれたこと——備蓄設計の3原則
1994年の渇水体験と、その後に学んだ水道インフラの脆弱性から、備蓄設計の3原則を導いた。
【水備蓄の3原則】
-
「飲料水」だけでなく「生活用水」を含めた総水量で設計する
トイレだけで1人1日20L以上の水が必要になる。飲料水2Lの備蓄は「生存の最低ライン」であり「生活の継続」には程遠い -
「全量備蓄」ではなく「代替手段との組み合わせ」で設計する
トイレは簡易トイレ・衛生は浄水器と組み合わせることで、飲料・調理用水の備蓄量を現実的な範囲に抑えられる -
「72時間」ではなく「7日〜14日」を目標に設計する
阪神大震災の断水は90日・1994年の渇水制限は124日。72時間は最低ラインであり目標ではない
8. まとめ
【平成6年渇水から学ぶ水備蓄:重要ポイント】
- 1994年松山市の給水制限は124日間。8月22日〜10月21日は19時間断水・1日5時間しか水が使えなかった
- 石手川ダムの貯水率はゼロになり底水まで使い果たすという事態に至った
- トイレが流せない・お風呂の時間が決まる——「飲料水以外の生活用水」の重要性を初めて実感した
- トイレ用水は1人1日18〜32Lに達し、飲料水の10〜20倍の量が必要になる
- 備蓄の現実解は「飲料・調理水の備蓄」+「簡易トイレ」+「ポータブル浄水器」の組み合わせ
- ローリングストックで日常消費と備蓄を兼ねる。長期保存水を別途確保して二層構造にする
- 断水は72時間では終わらない。7〜14日分を目標として設計する
- →「災害時に水が危険になる理由:汚染メカニズムと浄水の基礎知識」
- →「浄水フィルターの孔径と除去対象:0.1μm・0.02μm・RO膜の物理的限界」(準備中)
- →「備蓄水の必要量計算:季節・人数・活動量別の正確な算出式」(準備中)
- → ピラーページ:「防災グッズ完全ガイド:エンジニアが物理スペックで選ぶ生存72時間の必需品」


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